科学

量子もつれ:なぜ誤解されるのか?5つの神話と真実

量子もつれの複雑な世界を解き明かし、その驚異的な現象を取り巻く一般的な誤解を、最新の科学的知見に基づいて徹底的に検証します。

執筆 田中 秀樹4 分で読める東京, JAPAN
宇宙空間で互いに影響し合うように見える、抽象的な量子もつれの粒子
EchoChase / AI-generated

量子もつれは、現代物理学で最も不可解でありながら、最も魅力的な現象の一つです。二つの粒子が物理的に隔たっていても、まるで目に見えない糸で結ばれているかのように互いに影響し合うこの現象は、アルベルト・アインシュタインをして「不気味な遠隔作用」と言わしめました。しかし、その革命的な性質ゆえに、多くの誤解も生んでいます。本記事では、量子もつれに関する5つの主要な神話に科学の光を当て、その真の姿を明らかにします。

神話1:量子もつれは超光速通信を可能にする

量子もつれがしばしば「超光速通信」の可能性と結びつけられるのは、一方の粒子の状態が測定されると、瞬時にもう一方の粒子の状態が確定するという性質が誤解されているためです。しかし、この解釈は不正確です。量子もつれは、二つのもつれた粒子の間に存在する「相関」であり、情報そのものが超光速で伝達されるわけではありません。

理化学研究所の研究者らが指摘するように、ある粒子を測定する行為は、その粒子に関する情報を明らかにするだけで、他方の粒子に「メッセージ」を送るわけではありません。例えば、もつれた粒子のペアが東京と大阪にそれぞれ存在するとします。東京で粒子Aを測定し、そのスピンが上向きだったとしても、大阪の粒子Bが下向きになったという事実だけでは、東京の測定者が粒子Aに対して何をしたか、大阪の測定者は知り得ません。測定結果が事前にわかっていた相関関係に基づいているだけで、新たな情報が伝達されたわけではないのです。超光速通信は、アインシュタインの特殊相対性理論によって禁止されており、これは物理学の基礎的な柱の一つです。

神話2:量子もつれは量子テレポーテーションを実現する

「量子テレポーテーション」という言葉は、SF作品の瞬間移動を連想させるため、一般に誤解されがちです。量子テレポーテーションは、ある場所にある量子状態(粒子の特定のスピンや偏光など)を、別の場所にある粒子へ「転送」する技術であり、物質そのものを転送するものではありません。

「量子テレポーテーションは、SFの瞬間移動とは全く異なります。それは情報科学における技術革新であり、物質の転送ではなく、量子状態の忠実な再現を可能にします。」

山本 博、京都大学量子物理学研究所

具体的には、量子テレポーテーションでは、古典的な情報(測定結果)と量子もつれを利用します。送信者は、転送したい量子状態を持つ粒子ともつれた粒子の一つを測定し、その測定結果を通常の通信手段(光速以下)で受信者に伝えます。受信者は、その情報をもとに、もつれたもう一方の粒子に対して操作を行うことで、送信者の量子状態を再現します。したがって、このプロセスには必ず古典的な情報伝達が含まれるため、超光速での情報伝達は不可能であり、物質の瞬間移動でもありません。日本では、NTTなどが量子テレポーテーションの研究開発を進めており、量子インターネットの基盤技術として期待されています。例えば、2020年には、東京大学の研究チームが光ファイバーを通じた量子テレポーテーション実験で世界記録を更新しました。

神話3:量子もつれは意識や精神と何らかの関係がある

量子力学の奇妙な性質が、しばしば意識や精神、超常現象と結びつけられることがあります。しかし、現代の科学的知見において、量子もつれが人間の意識や精神構造と直接的な関係を持つという証拠は一切ありません。量子もつれは、原子や素粒子といった微視的な系で観察される物理現象であり、巨視的な脳の活動や意識レベルで直接作用するものではないと考えられています。

意識が量子物理学的なプロセスによって生み出されるという仮説も提唱されたことがありますが、それらを裏付ける実験的証拠は存在せず、主流の神経科学コミュニティでは受け入れられていません。量子もつれのような現象は、極低温や真空といった環境下で、非常に繊細な条件で維持される必要があります。人間の脳のような温かく複雑なシステムで、そのような量子状態が長時間維持されることは極めて困難であるとされています。現在のところ、意識は古典的な電気化学的信号と複雑な神経ネットワークの相互作用によって説明できる範囲にあります。

神話4:量子もつれはシュレーディンガーの猫のような状態をいつも作り出す

シュレーディンガーの猫の思考実験は、量子力学の「重ね合わせ」という概念を説明するために考案されました。箱の中の猫が「生きている状態」と「死んでいる状態」の重ね合わせにあると仮定することで、微視的な量子の重ね合わせが巨視的な世界にもたらす奇妙さを強調しています。しかし、この思考実験は、実際の猫が同時に生きていて死んでいるという状況を指すものではありません。

この実験のポイントは、「測定」という行為が重ね合わせ状態を一つの状態に収束させるという点です。箱を開けて猫の状態を観察する、それが測定です。実際の量子もつれにおいては、二つの粒子がそれぞれ特定の重ね合わせ状態にあるわけではありません。もつれた粒子は、個々の状態が不明であっても、その関係性、つまり相関性だけが量子的に記述されています。そして、一方を測定すると、その測定結果に基づいてもう一方の状態が確定するのです。この「重ね合わせの崩壊」は量子デコヒーレンスという現象によって説明され、量子状態が環境と相互作用することで、その量子性が失われ、古典的な状態へと移行することを意味します。つまり、猫のような巨視的な対象は、常に環境と相互作用しているため、重ね合わせ状態を維持することは極めて困難です。

神話5:量子もつれは単なる理論上の概念であり、実用化は不可能

量子もつれは、1930年代に提唱されて以来、長らく興味深い理論上の概念と考えられてきました。しかし、20世紀後半から21世紀にかけての実験技術の進歩により、量子もつれは実験室で日常的に生成・操作されるようになり、現在では様々な革新的な技術の基盤となっています。

量子もつれは、量子コンピューティングの中核をなす原理の一つです。量子ビット(キュービット)がもつれることで、指数関数的に多くの情報を処理できるようになり、これまでのスーパーコンピューターでは解決不可能だった問題に取り組むことが期待されています。また、量子暗号通信(QKD)では、もつれた粒子の特性を利用して、盗聴が不可能あるいは検出可能な高度なセキュリティを実現します。例えば、東芝は世界で最も長い500km以上の光ファイバーリンクでのQKDの実験に成功しており、実用化に向けた研究が進んでいます。さらに、病気の早期発見を可能にする超高感度量子センサーや、GPSよりも高精度な量子航法システムなどへの応用も研究されており、量子もつれは単なる理論の域を超え、私たちの未来を形作る具体的な技術へと進化を遂げています。

技術分野主な応用例現在の技術成熟度(推定)日本における主な研究機関・企業
量子コンピューティング新素材開発、創薬、金融モデリング研究開発段階/一部商用サービス理化学研究所、富士通、IBM Quantum Hub (慶應義塾大学)
量子暗号通信(QKD)安全なデータ通信、金融取引実証実験/限定的な実用化NTT、東芝、情報通信研究機構 (NICT)
量子センサー超高感度医療診断、精密測定研究段階東京大学、産業技術総合研究所 (AIST)
量子インターネットグローバルな量子情報網基礎研究段階大阪大学、NTT
量子もつれ関連技術の進化と応用

日本における量子技術関連予算(兆円)

よくある質問

量子もつれとは具体的にどのような現象ですか?

量子もつれとは、二つ以上の量子粒子が、たとえどれほど遠く離れていても、互いの状態が強く結びついている量子力学的な現象です。一方の粒子の状態を測定すると、瞬時にもう一方の粒子の状態がわかるという相関関係にあります。これは、古典物理学では説明できない独特の性質です。

量子もつれは日常生活にどのように役立つと考えられていますか?

量子もつれは、量子コンピューター、量子暗号通信、超高感度センサーなどの最先端技術に応用され、私たちの日常生活に大きな変革をもたらす可能性があります。例えば、量子コンピューターは新薬の開発を加速し、量子暗号通信はオンラインでの個人情報保護をより強固なものにします。まだ研究段階の技術が多いですが、将来的にその恩恵を受けることになります。

なぜ量子もつれをアインシュタインは「不気味な遠隔作用」と呼んだのですか?

アインシュタインは、量子もつれによって粒子間が瞬時に影響し合うように見える現象が、何らかの信号が光速を超えて伝わる可能性を示唆すると考え、特殊相対性理論の原則に反することから「不気味な遠隔作用」(spooky action at a distance)と表現しました。彼は量子力学のこの特徴を疑問視しましたが、その後の実験で量子もつれは実際に存在することが確認されました。

量子もつれを実験で確認することはできますか?

はい、量子もつれは数多くの実験によってその存在が確認されています。アラン・アスペ、ジョン・クラウザー、アントン・ツァイリンガーといった科学者たちが、ベルの不等式を用いた実験で量子もつれが古典的な相関では説明できないことを示し、2022年にはその功績によりノーベル物理学賞を受賞しました。このような実験は、光子やイオンなどの量子粒子を使って行われます。

量子もつれと量子重ね合わせの関係は何ですか?

量子重ね合わせは、粒子が同時に複数の状態(例えばスピンが上向きと下向き)を取り得る量子的な性質です。一方、量子もつれは、二つ以上の粒子がこの重ね合わせ状態にある状態で互いに深く相関し合っている状態を指します。つまり、個々の粒子は重ね合わせ状態にあり、それらの重ね合わせ状態が互いに相関しているのが量子もつれです。もつれは重ね合わせを前提としたより複雑な現象です。

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